2013年08月06日(火)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21


ある男性が、目の病気にかかり、手術をした。かすかに視力を取りとめることができた。しかし、仕事はもう無理で辞し、勿論、運転も出来なくなった。第一線でバリバリと、先頭に立って成績を上げていた有能な社員だった。幾らでも悲観的になり、落ち込むことができた。しかし驚くべき事に、彼はそうしなかった。ネガティブな思いを拒否し、信仰により、祈りによって、自分に与えられた状況を受け止めた。祈りに祈り、平安が与えられていた。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。今まで与えられていたものも、主からであり、それを取られるのも、主によるのであり、どうであれ自分はこれからもずっと、主を礼拝して生きて行く人生でありたいと。心は安らかであった。この事態により、更に主との深い関係に入れられる、恵みとして受け止めた。「なぜ、どうして」と、神を恨み、心を屈折させることもできたが、そうしなかった。彼の選択であった。周囲に素晴らしい神の栄光を現して行った。

ある高齢になった男性も、身体の機能が徐々に衰えて行き、もはや人の手を借りなければ、礼拝出席も難しくなった。それを主からの事と受け止めた。若い時の自分であれば、人の助けを受ける事は苦痛以外の何でも無かったが、生活のサポートの手を、これも主からのものと、感謝して受けた。「有難う」と受け取ることを学ばせられた。そして、心に何にも替えられない平安が満ちていた。
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主は豊かに与えまた、主の時に取り去られる。与えられた幸いなものを主にお返しする日が来たとしても主のなさること。悲しみはあっても抗わず受け入れたい。