2013年11月05日(火)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロには、何らかのとげが与えられていて、非常に辛く、苦しいものだったようだ。パウロにとっては、これさえ無ければと思うものであった。これがあるがために、働きがしにくい、これが無ければ、もっと〃有効に主のために働けるのにと。しかし、神のみ思いは別であった。高慢にならないためであり、弱さの中にこそ、神の力が働くのであり、その弱さを嘆くのではなく、むしろ誇れと。

私たちにも与えられているだろうか。これさえ無ければ、もっと主のために働けるのに。これにより足を引っ張られているのではない。性格的弱さか、境遇か、身体的弱さか、病か、しかし、主の恵みは十分だと言われる。満ち足りていると。その弱さを取り除き、取り去るのでなく、そうでなくその弱さこそが、神の力が、完全に現われるところだと。あなたにもあるだろうか。ここがもっと○○だと良いのに、これさえ無ければよいのに、もっと違う境遇なら良かったのに・・。スムーズに、自由に、神様のために働けるのに。

そうではなく、そこを誇れと言われる。そこにこそ神の栄光が現れる。又、私たちもパウロのように何でも主のもとに持って行き、祈り求め、そして自分の願い通りにならない事も、大きな祝福だと知ろう。「ノー」の答えの中に、そこに神の御心があるからだ。神の御心を知ることが、自分の思い通りになる事以上に素晴らしい祝福だ。
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状況に不満はあるが主はそれを十分だと言われる。これさえ無ければ、あれさえ有れば、誇れるほど主を頼りに歩んでいるだろうか。弱さを受け入れ、今日も主に感謝して歩もう。