2014年11月05日(水)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2




ダビデは、サウルから命を狙われ、逃亡していた時も、サウルに忠
誠を尽くし続けた。逃げ回る中で、まさにサウル殺害のチャンスが
あった。部下は、今こそ神が与えられた機会、敵を渡されたとダビ
デに進言した。しかしダビデは、サウルは、主が油注がれた王であ
り、手を下す事など絶対にできないと拒んだ。

サウルを立てている主を認め、主を畏れ、御前にへりくだった。主
が必ず彼を打たれると、主に委ねて、主を信頼し続けた。もし自分
でサウルを倒して、自分で王位を手に入れたなら、どうして主が与
えて下さった王位だと信じる事ができよう。ダビデは、そのように
「神の時に」、神によって、王位につけられた。ダビデ自身は何も
しなかった。

私たちもどうだろう。もし自分の画策で物事を動かし、自力で、自
分の思い通りのものを手に入れて行くなら、神から与えられたと、
誰が信じる事ができよう。まず自分が信じることができない。神の
御前にへりくだるとは、自分で動く事を止め、事を成就される神を
待ち望み、神に従って行くことだ。

又、ダビデは、王位についた時に、バテシバとの姦淫、その夫ウリ
ヤ殺害という大罪を犯してしまった。しかし、預言者ナタンから罪
の指摘を受けた時に、真っ直ぐに罪を認めて、悔い改めた。へりく
だる心があったからだ。その時に自己正当化も、言い訳もせず、バ
テシバのせいにもしなかった。そしてへりくだって、神からの刈り
取りを受け入れた。そのようなダビデを尚も、主は祝福された。
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自分でできることはすぐに自分でやってしまい、困難な状況でやっ
と祈り始める。神に成り代わってばかりだろうか。全ての状況に神
を認め、共にいてくださることを喜び、祈りから始めたい。