2015年06月06日(土)

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてくだ さい」詩篇25:4



私たちは、主の御心を行ないたいと願う。主は、そのような私たち
の内に働いて志を下さる。御心にかなった思いを起こし、私たちを
導かれる。主は思いを与えて導かれるが、自分の思いも湧き上がる。
主からの思いか、自分の欲による願望か、祈りが必要だ。でなけれ
ば自分の欲望や、自分に都合の良い事を御心と勘違いしてしまう。

見分けるためには、その思いは御言葉の原則に合致しているか、御
言葉に反していないか。御言葉と矛盾する導きを、主は決してされ
ない。そして、それは主の栄光が現れるか、周囲の人の徳を高め、
祝福となるか。誰かを傷つけるなら御心ではない。

大きな事は、時間をかけるとわかる。自分の思いなら、しばらくは
続くが、長くは祈り続けられない。御心でない思いは消え去る。し
かし主からの思い、志は、時間を経ても変わらない。成し遂げられ
るまで、思いがあって、祈り続ける事ができる。

時々突発的に、ああすればこうすればと、アイデアや思いが湧くが、
翌日消えてしまうなら、主からの思いではない。又、良い思いが湧
き、祈るが、その祈りも忘れ去っているなら、自分の思いだ。
主は「志を立てさせ」て下さると、同時に「事を行わせて下さる」。
行なう力は、主から来る。主からの志なら、主が、私たちを用いて
成し遂げて下さる。

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「神から発し」た事だけが「神によって成り、神に至る」。自分か
ら発した事が、神に至る事は無い。自分の思いか、主の御心か、よ
くよく祈ろう。祈りを重ねて行く時に、御霊が様々気づきを与えて
教えて下さる。御心へと導いて下さる。