2016年02月04日(木)

「外側から人にはいって来る物は人を汚すことのできない、ということがわからないのですか」マルコ7:18



この世は「性善説」だ。内側は善いものだが、外側から悪いものが
入るので、人は汚れると思われている。だから神社では、おはらい
をする。そして、環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、
犯罪を犯すと。環境が良くなれば、社会が良くなれば、人間は良く
なるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は
正反対のことを言う。

人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、
罪人だから罪を犯すと。「義人はいない。ひとりもいない」外側で
はなく、環境でなく、人の内側から出て来るものが、人を汚すと。
「悪い考え、不品行、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。
日常生活で出会う様々な問題、悩み、争い、それらは外側の問題で
はなく、それに関わる人々の心から出て来る問題だ。

悪い思いが心から出て来て、問題を引き起こす。外側でなく、心に
原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。自分の内側の事がわか
っていても、それに向き合うのは痛い事、辛い事なので、逃げて避
ける。不平、愚痴で一杯の人は、まず、神が飛んで、自分を棚上げ
にし、周囲の人々の事ばかりを言う。周囲ではなく、問題は自分の
内側にある。

まずその事に気づき認めよう。そして祈ろう。その時、解決へと向
かう。その中で御心なら、主が離れるようにと言われる状況もある。
自分と主の関係が正しければ、どんな状況であれ、心に平安与え
導かれる。
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環境がどのように変わっても不平や愚痴は常に内から湧いてくる。
問題はどうにも対処できない自分の罪だ。律法学者のように外側
だけ清くしようとせず、主の前に罪を認めていこう。