2017年04月05日(水)

「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるので す。立ちなさい。さあ、行くのです」マタイ26:46


主がゲッセマネの園で、祈られた祈りを通して、私たちも学ぶこと
ができる。主は、みこころなら、この杯=十字架を取り除いて欲し
いと祈られた。十字架を避けたいと。しかしわたしの願いでなく、
御心の通りにと。わたしの願い=十字架以外の、何らかの主の思い
を持っておられた。

最初から「みこころのとおりに」と優等生の祈りをされたのではな
く、この十字架を回避させて欲しいと率直に祈られた。驚くべき事
だ。人々の救いに関して、十字架でなく主の別の方法があったのか
も知れない。主が、そう祈られた事実は厳粛だ。そう祈ってよいの
であり、祈るべきだ。建前のきれい事の祈りでなく、素直に心の底
の本心を告げて行く事を教えられる。

自分の心の本音を打ち明け、主と交わることが大切だ。主は、御父
に向き合われ、真実に祈られた。本音で祈るからこそ、あるがまま
の自分が受け入れられていることがわかる。実感できる。そして、
自分の気持ちを十分受け止め、受け入れて貰っているからこそ、自
分を捨て、御心に従う決心へと進める。

「苦しみもだえ、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ち
た」。壮絶なる苦悶の祈りの中、御父の御心の通りにと、ご自身を
委ねられた主は「祈り終わって立ち上が」られた。御心を受け入れ、
御心に向かって進んで行かれた。十分主と交わろう。気持ちを聞い
ていただき、本心を告白して行く時、自分が変えられて行く。そし
て御心へと歩を進めて行ける。

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主が十字架を取り除いて下さいと祈られた。観念的に抽象的に、御
心が成りますようにと言えてしまうが、主は真に御心に向き合われ
た。自分自身も真剣に御心に向き合う時、出来ない事がわかる。そ
こで助けて下さいの祈りが生まれ、主に拠り頼んで行ける。