2017年07月06日(木)

「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」ルカ9:53


よくドラマに勧善懲悪が出て来るが、正義のヒーローに悪人が懲ら
しめられると、見ているほうは、すっきりする。気持ちが良い。主
がエルサレムに向かおうと、十字架の決意を定められ、御顔をまっ
すぐに向けられた。サマリヤを通過するが、宿等のために使いを先
に遣わし準備させられた。

しかしサマリヤでは、主を受け入れなかった。協力もしなかった。
その時、弟子たちが「私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き
滅ぼしましょうか」と言った。敵対する者たちは裁かれてしかるべ
きだと。しかし、主は彼らを戒められた。人の思いと神の思いには
大きなへだたりがある。

主がエルサレムへ向かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架に
かかるためだ。神のあり方を捨てられ、ご自分を無にし、仕えられ、
自分を卑しくし、すべての罪を身に引き受け、贖いを成し遂げるた
め、御父に徹底して従われるためだ。しかし、弟子たちにはわから
ず、理解できず、その前には、この中で誰が一番偉いかと議論して
いた。

しかし主は一番小さな者が一番偉いだと、諭された。主がまっすぐ
御顔をエルサレムに向けられたように、私たちの進む道も、十字架
の道だ。自分を捨て、自分の思いを通すのでなく、主の御心に歩む
道だ。しかしその時、主とひとつだ。心底の平安がそこにある。
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私たちは目の前のことに反応し思いは自然にネガティブに流される。
自分を捨てるのはとても不自由に思えるが、一瞬、一瞬の怒りや恐
れから祈っていこう。主と一つ心になることで本当に自由にされる。