2017年08月06日(日) 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4
ラッキーな事、ハピーな事、都合の良い事は、誰でも嬉しい。受験 合格、昇進、大豊作、商売繁盛・・信仰が無くとも、誰でも喜べる。 だがハバククは、いちじくの木が花を咲かせず、ぶどうの木も、オ リーブの木も実が無く、畑は何の収穫も無い。完全な不作だ。羊も 牛も絶えてしまった。環境は、どうしようも無い絶望状態であった。 その中でも喜んだ。失望落胆、嘆き、無気力になりそうなほどの状 況の中で、なぜ喜べたのか。「状況にあって」でなく、「主にあっ て」喜んだからだ。ある人が、聖書を読む時に「喜べ」との御言葉 が心に迫った。「主にあって喜びなさい」と。読む度に、何度も語 りかけられた。 しかし状況を見るなら、「何で?喜べるのか」「これのどこが?喜 びなのか」の状態だった。体調崩し、職を辞し、回復途上で、仕事 もしていない。しかしそんな時、状況と自分ばかりを見て、主から の語りかけを、拒否している事に気づかされた。状況にあって喜べ でなく、主にあって喜べと言っている。 初めて、「はい、喜びます」と受け取ろうと思った。その時、心が 不思議に平安にされた。主に視点を持って行こう。主はすべての事 をあい働かせて益とされる。災いは一つも無いと言われる。平安と 将来と希望のためのものであると。そして主に行き当たりバッタリ は無く、一人一人に計画を持っておられる。 そして、独り子を与えて下さるほどに愛して下さっている。さじ加 減ピッタリの訓練により、砕き、成長させて下さる。そんな主に絶 えず目を留め、愛されている。だからいつも主にあって喜ぶ事がで きる。 ・・・・・・・・・・・ 「主にあって」喜びなさいと言われている。しばしば状況にしか目 が行かない。恐れ、不満や愚痴で一杯いなる。喜びどころではない。 しかし喜べる状況だから喜べとは言っていない。主を見つめ、御言 葉を握り、信仰により、従えるよう助けを求めよう。