2018年04月05日(木)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の 中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ こを泉のわく所とします」詩編84:5


人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲し
い事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、辛くてた
まらない問題が起きる。なぜ自分にとわけがわからないような事が
起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じよう
に起きる。

クリスチャンになれば苦しみや悲しみが無くなるのではない。同じ
ように苦しみは置かれている。しかし両者は異なる。その違いは、
神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神
を認めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。

だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がお
られ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くから。神を信じ
ない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事
は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にす
ぎない。

神を信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認
め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じている
から、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行く。そこで神
を見、神に出会って行く。そこでしか聞けない御言葉を聞いて行く。
何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の
泉が湧き上がる。

なぜなら、そのどん底に神がおられるから。信仰とはそういう事だ。
もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを見ていた
り、神以外のものに頼っているのかも知れない。どんな苦しみの中
でも、そこが泉の湧く所とされる。シオンへの大路にある人、神に
向く人は、深い悲しみの中で、新たに主に出会って行く。

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信仰者にも、苦しみも悲しみもあるが、神無しの人生とは異なる。
そこに神がおられ、苦しみ悲しみに意味があり、神に触れて行く。
多くの事を教えられる。「後になると」パズルが繋がるように、そ
れらの意味が見えて来る。どんな時にも希望がある。