2018年07月06日(金)

「求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」Tヨハネ3:22




こんな人が目の前にいたらどうだろう。いつも会えば愚痴ばかり、
人の悪口しか言わない、噂話にうんざりさせられる、自慢話ばかり、
人の話はいっさい聞かず、自分の事のみ・・これではとてもじゃな
いが「好き」になれない。しかし、聖書に一言も、相手を好きにな
れとは言っていない。「愛しなさい」だ。

愛するとは、好きになる事ではない。好きになれなくても構わない。
好きになれずとも、愛することはできる。聖書の中で言っている愛
は、すべて「意志的愛」だ。感情の愛ではなく、意志の愛だ。感情
はコントロール出来ない。しかし意志は出来る。感情はコントロー
ルできないので、好きになる事が愛する事なら一生不可能だ。

主は意志の愛を見て、受け入れて下さっている。愛するとは、相手
の必要が生じた時に、自分に出来る事で犠牲を払うことだ。自分の
労力、時間、富の一部を献げることだ。「ですから私たちは兄弟の
ために、いのちを捨てるべきです」。例えば、「塩狩峠」のような
劇的に命を献げるなどと大きな事は普通の人生では起こらない。

日常生活で、目の前の小さな事であっても、自分の持っているもの
を献げて行く事、それが愛する事だ。少しの時間を犠牲にしたり、
労力を払ったり、富を献げたり、自分にできる事をすればよい。今、
具体的に御霊により示される事があるだろうか。実践する時、神の
御前に心を安らかにされる。そして求めるものをいただける。祈り
が答えられて行く。
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感情で好きにはなれなくても、意思で相手の側に立てるよう成熟し
た信仰で御言葉に従いたい。自分にできることは人より僅かでも、
主のために示す愛で自分自身が深く養われていく。