2020年02月04日(火)

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創世記22:1



アブラハムは「わたしが示す地に行け、あなたを祝福する」との、
主の言葉を信じて、慣れ親しんだ故郷を出て、どこに行くのかを知
らないで出て行った。彼の信仰だった。様々な失敗もあり、紆余曲
折の後、とうとう子孫を与えるとの主の約束が成就し、待ちに待っ
たイサクが与えられた。どんなに大きな喜びと幸せを味わった事だ
ろう。そんな彼に、最大の試練が臨んだ。

それは最愛の子イサクを全焼のいけにえとして、主に献げるように
というものだった。驚きと共に、一瞬耳を疑ったかも知れない。そ
んな事を主が命じられるのだろうか。しかし普段慣れ親しんでいる、
いつも交わっている主の御声だ。間違いはない。だが、主が奇跡を
もって与えて下さったイサク、それを取られるのだろうか。

イサクこそは約束の子であり、イサクから子孫が増え広がるのに、
イサクが死ぬなど、その約束はどうなるのか?様々な思いが駆け巡
ったろう。しかし彼には、主への深い信頼があり信仰が培われてい
た。これは確かに主からの御声だ。大きな試練だが「神には、人を
死者の中からよみがえらせる事もできる」と信じた。

それで「翌朝早く」直ちに従った。イサクと従者とモリヤの地に向
かった。イサクをいけにえとし、刀を振り上げた瞬間、主が制止さ
れた。そこには代わりの雄羊が備えられていた。従う道には、必ず
「主の山に備えがある」。私たちも試練に会う。しかしその中も、
主の山の上に必ず備えがある。
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主は必ず最善を備えていてくださる。なぜ、どうしてと理解できな
い問題も、全能の主の御手の中から来ている。何もないと思う所に
いつも「主の山に備え」があった。