2023年03月06日(月) 「パウロは・・大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい。』と 言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」使徒14:10
「パウロは・・大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい。』と 言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」使徒14:10
生まれつき足きかない男性がいた。かつて一度も歩いた事がなかっ た。パウロが御言葉を話していた時に、彼が丁度そこに座ってい て、じっと耳を傾けていた。彼は歩けず、足に関しては、どうする 事もできなかった。完全に無力の状態だった。自分で何のすべもな かった。だからこそパウロの「自分の足で、まっすぐに立ちなさ い」との言葉にすがりつけた。 もし他に方法があれば、そちらに行っていただろう。彼には、他に 何も無く、この言葉しかなく、この言葉がずべてだった。御言葉に しがみつき、信じて賭けた。自分が徹底的に無力だからこそ、そう できた。力があれば、あちこちと方策を探し回り、自分で何とかし ていた。その信仰に、神の力が働き奇跡が起きた。 御言葉に従うと、一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出し た。私達も自らの無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無 く、何もどうにもならない、信じるしか道がない。その時に初めて 「信仰」が機能する。自力と自分の方法に頼り、自分を信じている 限り、そこに神への信仰は無い。 信仰半分、自分の力半分という事はあり得ない。御言葉があって も、必ず自分の力、知恵、方法でやって行く。そこに信仰の入る余 地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事 だ。御言葉にすがりつく事だ。そのため自分の無力を知る事こそが 大きな祝福の門口だ。世の価値観とは真逆で、無力こそが大きな祝 福の道だ。 ------------ 主に信頼していると思いながらも出来ることは自力でやってしま う。完全に自分の力が役に立たないと知らされるのは実は大きな恵 みの時ではないか。主にすっかり明け渡し頼ろう。