2024年07月06日(土)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようとも せず・・『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」ル カ18:13



パリサイ人と取税人の祈りが、出て来る。当時、パリサイ人は、
外面は宗教的であり、道徳的な人々だった。戒めは守り、姦淫
はせず、断食し、よく祈り、十分の一の献げ物を忠実に行なっ
ていた。外側は品行方正で、紳士的で、大変立派な人物に見えた。
しかし心の中は、自分は正しく立派である事を誇り、人々を見下
していた。

常に人との比較で、自分を量っていた。主に対してでなく、人に対
しての自分だった。そこに神は無かった。絶えず人との比較がある
ばかりだ。比較は、人より優ると優越感、劣ると劣等感となる。生
涯、優越感と劣等感の間を行ったり来たりする。このパリサイ人は、
主の御前にいると思っているが、見ているのは、ただ、人だけだった。

あの人よりはましと自分を量り、自分の正当性を保っていた。取税
人は、誰が見ても明かな罪人だった。ローマの手先となり、同胞か
ら税金を取り、私服を肥やしていた。そんな彼には、ただ主と自分
だけが見えて、他人の事など思いも及ばなかった。主に向き合う時、
自分の罪がはっきり見える。見えるので、悔い改めることができる。
その罪は完全に赦される。

主ではなく、人に向くなら、自分の罪は何も見えない。暗闇の中だ。
だから自分を誇り、高ぶるばかりだ。しかし、主に向くなら、愛の無
い自分、人をさばく自分、高慢な自分、自己中心な自分、それが見
えるから、悔い改める事ができる。絶えず「私をあわれんでください」と、
主のもとに行ける。主のあわれみは尽きず、罪を赦し続けて下さる。

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罪につき、義につき、裁きにつき、教えて下さるのは御霊だ。御霊
により罪を示されると、悔いくずおれる。周囲も見えず、ただただ
自分の罪が見える。悔い改めることが出来て、その罪は赦され、
消し去られる。心に平安が来る。