2024年11月05日(火)

「イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たい と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について 来なさい』」マタイ16:24



主は、ついて来たいなら自分を捨て・・と言われ、これは「自分の何
かを」捨てる事ではなく「自分を」捨て、と言われる。捨てるのは
自分自身だと。私たちの自我を日々に十字架につけて、従って行く
必要がある。私たちは主イエスの十字架により、主に在って義人だ
と、神は見て下さっている。

すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。古い人
は、キリストと共にすでに十字架につけられた。しかし同時に、天
国に帰るまで、自分の内には肉がある。そのため日々自分を捨てて、
歩む事になる。新生した時に、肉を取り去られるのでなく、天に帰
るまで置かれている。霊と肉があるからこそ葛藤の中で、成長、成
熟が与えられて行く。

泥酔や賭博、妬みや憎しみ等はストレートな罪でわかりやすい。し
かし、醜い自我だけでなく、心を占めている偶像は、良いものかも
知れない。そんな時は気づきにくい。サウル王はすべてを聖絶せよ
との命令に、「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないも
の」を聖絶した。私たちもどうだろう。最も良いものを惜しみ、ど
うでもよいものを捨てているだろうか。

時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、肉を喜ばせる誇りや
プライド、自己満足、つまり自我がますます肥え太っているかも知
れない。「山を動かすほどの完全は信仰」があっても、自分の栄光
のためだろうか。自分を捨てなければ、無に帰してしまう。御霊は、
具体的に自分に死ぬ事を、そして御心を行なって行く事を、気づき
を与えつつ、示して下さる。一歩一歩従おう。
---------------
心に様々なものを持ちながら、そして片方では、主に明け渡すこと
を祈っている。なんと複雑な生き方だろう。御霊の示しに気づける
ことは祝福だ。素直に主を信頼し御霊に従い一つ一つ明け渡そう。