2003年05月06日(火) 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして 話し、子どもとして考え、子どもとして論じま したが、おとなになったときには、子どものこ とをやめました」(Tコリント13:11) 主は子供のような信仰を持つようにと語られた。 しかし、子供のような素直な信仰とは子供っぽい 信仰の事ではない。子供っぽい信仰とは、自分が 受ける事しか考えない。神は良くして下さらなけ ればならない。困難が来ると不平不満。 思い通りにならないと、すねて、いじけて、自己 憐憫に陥る。神を責め、人を責め、環境のせいに する。主にある友が愛をもって、間違いを正そう とすると、自分を受け入れないと怒る。 どこまでも自己中心なのだ。あなたの信仰はどう か。神は聖くして下さりたいので、困難は次から 次へと来る。愛のゆえだ。 子供っぽい信仰から脱却し、大人の信仰へと成長 して行こう。神は手をとって導いて下さる。