2008年03月06日(木) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
アダムとエバへの誘惑は「神のように なり」だった。「善悪を知るようにな り」知識を得て、神を捨て、自分が神 となり意志決定し、判断して生きると いうものだ。それ以前は神に依存して 生きていた。平安で何の心配も思い煩 いも無かった。しかし、人は自分の判 断と自分の力で生きて行く事を望み、 選択した。それ以来、神を無視し、自 分が神となり、自分が世界の中心とな り、自分の力で生きるようになった。 これが罪だ。自分を喜ばせ、自分の満 足のため、自分を主張し、自己実現の ために生きている。しかし、ここに真 の満足が全く無い。自分のために得れ ば得るほど、ますます渇き、ますます 求める。しかし心満たされる事はない。 貪欲は持てば持つほど渇く。真の満た しは、逆だ。自分を満足させる事でな く、自分を捨てる事、自分に死ぬ事、 自分を与える事にある。自己を追求す るのでなく、自分を捨てる事、自分以 外のために、神のため、人のために生 きる時に真の満たしが来る。自分を喜 ばせようとする時、喜びが失せ、神を 喜ばせようとする時に、自分に喜びが 来る。肉は必ず自己中心だ。自分の損 得で生きる。行動の基準が損得だ。損 になる事はしない。しかし御霊に導か れた新しい人は、損になろうと神の御 心に生きて行く。そして本当の愛と喜 びを経験する。 ---------------------- 善悪を自分で判断し、自分の思い通り に行く事が成功だとサタンはエバと同 じ誘惑を持って来る。その結果を私達 は知っている。自分を捨てて、主と一緒 に行こう。