2008年11月05日(水)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7




イスラエルの民は、乳と蜜の流れる地を目指して前進し、神を信仰して来た。
そのカナンの地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そうではない。

良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、
主を恐れなさい」と。
神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。

ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通っていた。
どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、神から恵みをもぎ取ろうとし
ている自分の姿に、悔いくずおれた。

これなら目的さえ果たされるなら、手段は何でも良くなってしまう。
「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでもよくなってし
まう事になる。悔い改めて、明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、何かを得るための、
手段にすると何もかもが的はずれになる。

自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決の手段、それなら、自分の
思い通り、期待通りでない時につまずいて、失望し、迷路に入り、神から離れる事になる。

又、実質も実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与えられようと、与えられまいと、
神ご自身を信じて生きる事、神を喜ぶ事、これが目的だ。
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自分の感情が安定していたり、環境が整っていたら神様は近くおられ、逆なら神様は遠く
離れているのだろうか。そうではない。昨日も今日も変わらぬ愛で共にいて下さる。神様
に尋ね、応答しながら今日も歩もう。