2009年06月01日(月)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」マタイ25:25



1タラントは少額ではない。6千万円に相当する額だ。このしもべは、減らす事を恐れた。もし商売失敗したら、泥棒に盗まれたら・・、主人の怒りが恐い。

とにかく無くさないよう必死であった。そのため地に埋めた。しかし、帰還した主人は、使い込んだわけでなくそのまま返した、彼を怠け者と叱責し、追い出した。

失敗して減るより、いいのではと思いそうだが、主人の思いの置き所は違った。彼は、無くしさえしなければ問題ないだろう、主人に関わりたくなかった。

5タラントと2タラントの者が儲けたのは、主人を喜ばせたいとの動機だった。
そこに主人への信頼があった。万一失敗しても、主人は受け入れてくれると。だから思いきり商売できた。

埋めた彼は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人と。そんな主人のために何をしたいとも思わなかった。私たちはどうだろう?神理解が間違っていないか。

怯える恐い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であり、罰が恐いから従っているか。神の最大の賜物は、私たちへのキリストの愛であった。

御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。主人はしもべに期待して、失敗のリスクも負った上で、信頼のゆえタラントを預けた。

「主人の喜びを共に喜んでくれ」喜びを共にするために。御父の大きな愛と信頼を受け取る時、精一杯応えようとしないだろうか。
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与えられた賜物を喜んで使う、その心を神様は喜んで下さる。そのお心がわかるので、また感謝して賜物をお献げできる。しなければならないのではなく、神様の喜びを自分の喜びとして行く大人の信仰で、今週も歩もう。