2009年07月06日(月)

「主はモアブをあなたがたの手に渡される」U列王3:18



ヨシャパテがユダ王であった時、北イスラエルの王はヨラムであった。北で、モアブの王がそむいたので、ヨラムはヨシャパテに援軍を頼んだ。

ヨシャパテは引き受け、揃って進軍して行くと、途中で水の無い所に来た。家畜のための水も無く立ち往生だ。この時、ヨラムはネガティブ思考に入った。

この窮地に、神が自分達を進軍させたのは、敵の手に渡すためであり、神に見捨てられたのだと。しかし、ヨシャパテは違った。神視点に立った。神はどう思われ、神のお心はどうなのか。
主の御心を求める事のできる預言者を求めた。

状況がどんなに悪かろうと、神に頼り、神の御心を求めて行く姿勢だ。ヨラムは「ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった」偶像礼拝の罪を犯していた。

私たちはどうだろう。偶像礼拝とは、単に像を拝む事ではなく、自己中心も偶像礼拝だ。自分の思い通りに、自分に都合良く行く事を願う。
もしそうであれば、事態が思い通りにならない時、いら立ち、思い煩い、悲観的になる。

ヨシャパテは、自分の思い、都合でなく御心を求めた。
水が無くなった時に、二つの相反する反応が出た。
目の前に、問題が起きた時、思い煩い、ネガティブに陥って行くのでなく、神の主権を認め、「この事における御心は何か?」と祈ろう。そこに神の御心があり、学びがあり、豊かな祝福が備えられている。
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いつも、自分視点で物事を捉えるなら、神様が介入される所はない。事態が悪ければ、うろたえ良ければ喜ぶ。自己中心な生活を正当化し続けるなら、水のない枯れた道をさ迷うばかりだ。