2009年08月05日(水)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:13


謙遜とは、物腰を低くする事ではない。「いえいえ、私などは」と口では言いつつ、心の中では相手を見下げ、自らを高めていたりする。サウルがサムエルの命令を守らず、良いものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。

その時、その罪をサムエルから指摘され、サウルは、弁解しながらも罪を認めた。そして、赦しを乞うた。しかし皆の前で、面目を立てて欲しいと願った。つまり、民達には知られたくないと。

これは謙遜ではなく、真の悔い改めではない。真に、神の御前に悔い改める時、体裁や体面など及びもつかない。入る余地などない。ただただ自らの罪が見えるだけだ。その結果、全き赦しを受け取り、新たにされる。

謙遜とは悔い砕かれた心だ。神はそれを軽しめられない。ダビデがナタンから罪を示された時、心が砕かれた。罪を告白し、全き赦しが与えられた。謙遜は自らの罪を認める。

アダムは、自分の罪と恥を知った。その結果、自分を隠した。自分の罪、失敗を見て、恐れた。神は、そのアダムを見捨てられない。アダムを探し、アダムに問いかけ、悔い改めのチャンスを下さった。

しかしアダムは自分の責任、弱さ、罪を認めず、エバに責任転嫁してしまった。
謙遜、へりくだりとは、自らの罪を、真正面から認めることだ。
痛みを伴い辛い事だが、赦しと解放の大きな恵みにあずかる。心が楽になり、平安が臨む。
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自分の罪を認め、十字架を見上げる時、真に取るに足りない自分を思う。高慢になりようのない自分をいつも覚え、悔い改め赦されながら今日も歩もう。