2009年10月05日(月)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました・・」ガラテヤ5:1



時々、信仰は拘束であり、縛りつけられ、窮屈だと言う人がいる。あれはダメ、これはダメと。あなたもそう思うだろうか。しかし、真の信仰は決して窮屈ではない。
むしろ、「ねばならない」の、かせから解き放たれて、自由にされる。

金魚は水の中で、自在に泳ぐことができる。もし金魚が「水の中なんて嫌だ。水だけに限定されるなど窮屈で不満だ。陸に自由に上がりたい」と言えばどうだろう。
それは死を意味する事になる。金魚は即、死んでしまう。

又、レールを走っている電車は不自由で、レールは拘束だろうか。そうではない。電車はレールの上を走る時、力を自由に発揮し、最高に自由だ。レール以外の所こそ不自由だ。楽器演奏者は、譜面に忠実に音符を演奏する。その譜面は不自由だろうか。
譜面に忠実であることによって、最高の美しい素晴らしい演奏が奏でられる。

ルールに拘束される事に反発して、勝手にやりたい放題する事が自由だと勘違いするが、自由なのではない。それはわがままで、放縦だ。肉の欲望を遂げても、平安も何の実も無い。

自由とは御霊に従うところにある。愛する事が自由で、憎む事は不自由だ。その証拠に、心が辛くて苦しい。御霊はそこから解放して下さる。御霊の示しに一歩一歩従おう。自由に、自由にされる。
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主を知らなければ自由だっただろうか。自分の勝手な価値観や人の価値観が不安や焦りとなり何をしても安定を欠いていなかっただろうか。人を愛する自由、憎まない自由、主が下さった自由に堅く立って御霊の実を結んでいこう。