2010年01月05日(火)

「この事については、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:8



時々、私たちの思いと、神のみ思いが大きく異なることがある。神は私たちに祈れと言われ、願えと言われる。祈りを喜んで下さる。しかし、祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。

私たちは自分の思い通りにしたいとの、肉の思いが強くある。自分の思い通りに、祈りを叶えて欲しい。しばしば神のみ思いは異なる。例えば、私たちは、生まれつき動かない腕なら、腕が動くことが癒しであり、祈りの答えだと思ってしまう。

しかし、もし、腕が動かなくとも、生き生きとした喜びと平安、感謝に溢れた人生を送れるようにされる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。障がいを負ったある人は、もし、このままの方が神の栄光が現れるなら、このままで良いです、御心のままにと祈った。

結局は、私たちの身体がどうであれ、私たちの目標は、神の栄光が現れることだ。パウロはトゲが取り去られるよう3度も祈ったが、主は、それがある方がより栄光が現れると言われた。

ある人はトゲが取り去られ、ある人は残される。どちらも結局は、神の栄光のためだ。
その人にとり、その方が神の栄光が現れる。私たちの「なぜ?なぜ?」と不満と愚痴の部分を今一度、御霊の光に照らして受け取り直そう。主の栄光のためではないだろうか。
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願っても叶えられない祈りなら、トゲを取り除く努力ばかりに捕らわれず、トゲを持ったままで主に頼り、主に全てをお任せし「恵みは十分です」と言えるよう祈りを変えてみてはどうだろうか。