2010年04月04日(日)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができよう」箴言27:4



憤りも怒りも悲惨なものだが、妬みは誰もどうにも出来ない、手に負えないもの
と言っている。妬みはそれほどの、破壊的力を持つものだ。そして、それは誰の
心にもあり、又、自分の内にありながら、気づいていないものだ。

カインは献げ物で、アベルを妬み、殺害に及んだ。ヨセフは父親の偏愛で、兄弟
たちの激しい妬みを買った。サウルは、ダビデを妬み、それは狂気へと高じて行
った。放蕩息子の兄は弟を妬んで、怒りで身体を震わせた。

主は祭司長たちに妬まれ、妬みのゆえに引き渡された。ぶどう園の早朝の労働者
も5時の労働者を妬んだ。「あらゆる労苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによ
る」とある。妬みは強烈なエネルギーとなり、様々な分野に成功を収めさせる。

しかし、それは虚しいと。あなたのあの行動、この言動、その成した事柄、その
動機に「妬み」はなかったか。隠れた競争心、張り合い、敵対心、報復心が見え
隠れしないか。御言葉はそう追求している。

この誰もどうにも出来ない「妬み」の解決はどこにあるのか。それは、主を見上
げ、神の愛と恵み、慈しみ、賜物が、自分にも溢れるばかりに注がれていること
に、目が開かれること、見て行くこと、気づくことにある。

それは人を見るなら、ますます見えなくなり、真っ暗闇の中だ。目を天に向けて、
視点を神に向ける時、御霊によって明らかにされ、気づかせられ、教えられる。

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この世の社会での成功は、妬みが原動力になっていると、御言葉は言っている。
しかし、主はそこから解放して下さる。まず気づきから始まる。御霊が自らの動
機に気づかせて下さるように。そして、妬む必要の無い、溢れる主の愛が自分に
注がれている事を見せて下さるように。