2010年08月04日(水)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6

信仰人生で、私たちがつまづくのは、どんな時だろう。よく考えてみると「自分の」期待に合わない時ではないだろうか。どこまでも「自分の」願いに、思いに、そぐわないので、つまづいていないか。

自分に関係の無い事で、人はつまづく事はない。「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、自分の思い通りにならない時に、つまづいたと思う。そして、そんな神なら捨ててしまう。自分の願いが叶えられないなら、用はない。偶像ならそうだ。

当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、王として、主を求めた。メシヤとして華々しく王位に着く事を。しかし、現実的はどうか。王になるはずの主が、十字架にかかるとは。とても受け入れられない。人々は自分たちの思い通りでない、主を捨てた。期待通りでない、期待を裏切る主が腹立たしい。

腹を立てた。私たちもどうだろう。信仰人生が自分の期待通りに行かない、思い通りでない、願いが叶えられない。その時につまづく。その時の軸が「自分」だ。自分の気持ち、自分の思い。その軸を「神」に変えてみよう。

神のみ思いは?神の御心は?神はどう思われるのか?神を軸におき、その神に自分の心を沿わせ、明け渡して行く時に初めて、今までの世界とは違い、霊の世界が、神が見えて来る。
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自分軸から神様の軸に視点を変えるなら、自分にとらわれて見えなかったもの遮られているものを教えて下さいの祈りに変わって行く。つまずいてしまうのではなく、その中で新しくまた神様を個人的に知り変えられて行く信仰生活でありたい。