2010年09月04日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71 

                 
   
ある人が、当時、高度成長期で、まさに企業戦士であり、深夜帰宅に早朝出勤、
休日無く、がむしゃらに働いた。仕事の重圧にストレスは溜まり、過労でとうと
う限界で、心身に来た。眠れなくなり、眠剤に頼るようになり、わけのわからな
い不安、孤独感に襲われ、しばらく休暇を取り、通院した。

そんな時、誘われて教会へ行った。そこでの賛美歌、祈り、聖書の言葉、何もか
も初めてであったが、カラカラのスポンジが水を吸い込むように、心にしみ渡っ
た。何かわからないが安堵感があった。しかし、何でもよい、わらにもすがりた
かっただけで、自分の「罪」がわかってはいなかった。

ある日、「自分はだめ人間」との言葉が自分の口から出た。その時「それは恵み
ですよ」と、だめだからこそ、神の力を知れると言われ、カチン!と来たのだ。
だめ人間と、他人から同意された事に怒りが湧いた。口では言うが、自分はこれ
ぽっちも思ってなどいない。

その時、あぶり出されるように、自分のプライドが示された。自分の力で頑張り
に頑張って来て、人一倍高いプライドがあり、そのプライドが神を認めなくさせ
ていた。神など必要無いと思っている。それは自分が神であり、恐るべき高慢で
あり、それこそが罪であると示された。

人より優りたい、優位に立ちたい、勝ちたい、評価されたい、認められたい、今
までの人生、まさにそのためにだけ、生きて来たと気づかされた。心から悔い改
めた時、生まれて初めて心底の安堵を経験した。平安が臨んだ。人生が180度
変えられた。

・・・・・・・・・・・・・・・・
様々な苦しみに会うが、会って良かった、幸せだったと必ず言えるようにして下
さるとは、何と恵みで感謝な事だろう。苦しみが苦しみで終わらない。結果的に、
更に主を深く知るためだ。必ず「幸せでした」と言える、そこを見つめていよう。