2011年11月04日(金)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27


ヨハネへの人気と賞賛が、主イエスの登場により、どんどんそちらへと移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思うがゆえに、いらだち、妬み、寂しさを感じていた。しかし、ヨハネは全く動じず、態度は立派だった。自分はキリストではないと言明し、主が花婿で、自分は花婿の友人であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間で、喜びをもって主に仕えていた。

真に主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネは謙遜だった。人を見て、人と比較するなら、優越感や劣等感に陥る。同期の同僚の昇進はどうだろう。学生間の成績や人気、又、ライバルの成功は?心穏やかでいられない。プライドが傷つくのだ。人の成功を、自分の失敗のように感じて、認められない。人が誉められると、自分がけなされたように感じる。まるでシーソーだ。相手が高められると、自分が低くなる。

それらは心に巣くう高慢から来る。ヨハネはへりくだっていた。人の誉れも成功も、天からのものであり、そこに神を認め、神の主権を認めた。そして、神が与えて下さるものに感謝し、心から満足した。そこには不平も不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に揺るぎない平安が臨む。へりくだった人に与えられる大きな恵みだ。
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へりくだり天の管から降りてくる自分の恵みだけを見ていよう。人の成功が苦い時、人の失敗を裁く時、いかに自分が高ぶっていたか自信満々であったかを知り悔い改めて行きたい。