2012年07月05日(木)

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネの福音書21:4

主を裏切った後、ガリラヤに戻ったペテロと弟子たちは、心は重く、虚しく、沈んでいただろう。もう一度網を取り、以前のなりわいである漁をする。しかし、一匹も捕れない。心には深い痛みと失望感、挫折感。夜明け頃、岸辺に立った見知らぬ人から「子どもたちよ。食べる物がありませんね」との声が聞こえた。

声の主は、誰かはわからないまま、「はい、ありません」と、正直にありのまま答えた。その答えを受けて、直ちに「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」との声。岸辺からのその声に従い、網を打った。すると網を引き上げられないほどの大漁だった。

以前、同じような経験をした。その光景と合致した。ヨハネは、瞬間「主です」と悟った。途端、ペテロは主に会いたい一心で、湖に飛び込んだ。陸地に上がると主がおられ、魚とパンが用意されていた。そして、ペテロを取り扱われた。

「なぜ、裏切ったのか」と、ペテロの裏切りについて、一言も言われない。三回の裏切りは、「わたしを愛しますか」の三回の問いかけにより、深い傷をがおおわれ、癒された。主の打ち傷によって、罪が赦され、癒された。

悲しみ悔いる者を、赦し、癒される、主の慈しみと深いご愛を見せられる。ペテロは主のご愛により回復された。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。弟子たちへの慈しみとご愛は、私たちへも同様に注がれている。
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主が見えない事はなんと不安なことか。思い煩いや、くり返す失敗、また受けた傷で主の光がさえぎられてしまうかもしれない。そんな時こそ、慈しみ深い主を仰ぎ、ありのままの自分で慰めを祈ろう。