2012年08月02日(木)

「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです」詩編5:9



人を賞めることと、へつらいの違いは、難しい。判断には、御霊の導きが必要だ。へつらいには、個人的な肉の欲望があり、そこには罠がある。人はもとより、自分自身も、相手をほめているつもりが、実は、自己中心な欲を満たすために、自分の利益のために、人にへつらっている事がないだろうか。

自分自身にも肉の性質があるからだ。そして、自分のへつらいは、なかなか自分でも気づく事ができないものだ。この世では、自分の地位につながる、出世のための処世訓だったりする。余りにも普通であり、意識にも上らないかも知れない。しかし、そこには真実がない。

当時、ダビデの周囲にも、気に入られたいと、へつらう者どもが群れをなしていた。へつらいの言葉は虚しい。そのような関係は利得で成り立っている利害関係であり、自分に得るものが無くなるや、消えて無くなってしまう。

ダビデは、「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし」と、朝明けに、真実な主と真実な交わりにより、心の内をことごとく告げ、絶えず心新たにされた。日々の主との交わりにより、「へつらい」から守られ、「口に真実」が置かれる。「御霊の実は・・誠実です」誠実の実を結ばせて下さる。又、人からのへつらいも見分けさせて下さる。
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何気なく相手に言っている言葉も、自分を有利にするためならへつらいだ。朝、御言葉を読み祈るために時間をとりたい。主との交わりで心を満たされ、主の守りをうけ、自分を自分で守らず誠実に真実だけが語れるよう祈りたい。