2012年11月03日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9



「罪を言い表わすなら」とは、犯した罪をその通りですと、認める
ことだ。その通りですと認める告白するなら、神はその罪を赦して
下さる。しかし、肉は「その通りです」とは認めたくない。認める
のは痛くて、辛い。プライドに触れて来るからだ。どうしても言い
訳、弁解をして、自分を正当化したい。

こんな罪を犯してしまったのは、状況が悪かったから、相手が悪か
ったから、仕方が無かったと思いたい。肉は、何とかそこに持って
行きたい。自我は、どうあっても「ごめんなさい」だけは言いたく
ない。しかし、そうであれば、赦しを受けることができない。主の
愛に触れ、赦される喜びを知ることもない。

あるがままで主の御前に行けばよい。「認めることができません」
「いや、そうではなく、認めたく無い者です」「でも、認める事が
できるよう助けて下さい」、その祈りに主は答えて下さる。罪を認
めて悔い改める時、罪が赦される。主の十字架のゆえに、苦しい心
に平安が戻り、喜びが戻る。

バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯したダビデは「黙っていた
時には、1日中うめいて、骨々は疲れ果て」「御手が昼も夜も重く
のしかかり、骨髄は夏のひでりのように乾ききった」苦しみもだえ
た。

しかし、罪を主に告白した時、ダビデは赦された。主との関係が回
復されたダビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜びの声をあげ
よ」と。大きな喜びが戻った。もし、今、言い訳に終始し、逃げて
いるなら、自らの罪を認めよう。計り知れない安堵と喜び、大きな
祝福の中に入れられる。

・・・・・・・・・・・・・
罪を認め告白するなら、完全に赦されるというのは、何と驚くべき
恵みだろう。心底の安堵と喜びが戻る事を何度も〃経験する。プラ
イドが罪を認める事を妨げる。御霊が罪を示し、悔い改めを促して
下さるので、逃げずに従おう。赦される喜びを味わう。