2013年05月05日(日)

「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩 して湯水のように財産を使ってしまった」ルカ15:13


兄と弟息子がいたが、弟息子は父に、財産の生前分与を要求した。
父は財産を与えるならどうなるかは、すべてわかっていた。与えず
に、拒否することもできた。
しかし、父はわかっていて、弟息子の意志による選択を受け入れた。
したいようにさせてやった。自分でやってみないとわからない、通
らないとわからない事を、父は知っていた。

息子は大喜びで、遠国へ。父のもとにいるのは窮屈であり、父から
自由になりたかった。息子は財産を湯水のごとく使った挙げ句、と
うとう使い果たしてしまった。働かなければ、食べる事ができない。
どうにもならない所へ、追い詰められて行く。

豚の番人をするが、食べ物は貰えず、餓死寸前だ。とうとう行き詰
まり、我に返った。父のもとに帰る決心をした。その間、父は、息
子を連れ戻しにも行かず、叱りにも、説教しにも行かず、しかし放
任ではなく、じっと見守った。息子が帰るのを、ただ待ち続けた。

息子が自分で戻るのを待った。これが父の愛だ。そして、父は息子
を見つけるや、走り寄り、彼を抱き口づけした。一言も責めること
なく受け入れた。この時に、息子は真に父の愛を知った。父が阻止
していたなら、息子はどうだろう。不満タラタラ、反抗心を秘めた
うわべだけの親子関係だったろう。以後、息子の父への気持ちは、
愛と信頼に変えられた。

・・・・・・・・・・・・
「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し・・ここに愛があ
るのです」、神を愛そうと頑張るから、愛して下さるのではない。
受け入れてもらおうと努力するから、受け入れられるのではない。
神は今も、主の十字架のゆえに、このまま愛して下さっている。