2013年06月03日(月)

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5


ある父親の信仰体験談だ。ある頃、どうも子供の様子がおかしく、もしやいじめに会っているのではと思えた。持ち物が無くなり、服が汚れていたり、普通ではなかった。その内、腹痛で寝込み、食欲失せ、そして不登校になった。父親は子供に良い成績を望み、学習を強いた。悪い成績だと、自分が受け入れられず、子供に怒鳴り叱りつけた。子供は心が荒れて、鬱積が爆発した。怒りが父親に向かい、暴力を振るった。家の中は物も壊れ、滅茶苦茶だった。

父親は職場でも責任ある立場にあり、仕事量も多く、重圧で瀬戸際だった。どうにもならず、飲酒に逃げた。少しの間でも、現実を忘れたかった。考えたくなかった。そんな時、親しい知人から聖書カウンセリングを勧められた。八方塞がりであり、聖書の学びを受けようと思った。学びの中で、自分の姿が見えて愕然とした。

余りの苦悩に、この子さえいなければとの思い、仕事人間で、家庭の事など頭に無かった、子供と話した事もなく、自分のプライドや虚栄心、世間体、ただ自分の思いを押しつけて来た・・涙ながらに、心から悔い改めた。十字架が真に自分のためである事がわかり、赦しを受け取れた。子供に心から詫びた。父子のわだかまりが溶かされて、暖かいものが流れた。自分が変えられた時、子供の心も癒されて行った。
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自分の内にある傷痕や簡単に人を傷つける罪、その深い闇を癒し、思いを鎮めてくれるのは主の十字架が間近に迫って来た時だ。自分の内には何もないが、主のみがそこを満たして下さる。