2013年09月03日(火)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


信仰生活において、なぜ日々みことばが必要なのだろう。この世に生きている私達は、日毎にこの世の価値観に襲われ、さらされ、攻撃を受けている。意識するとすまいと凄まじい影響下にいる。全く正反対の価値観だ。この世は、地のものを目指し、自らの判断と知恵を根拠に、自分軸で、自分の栄光のために生きる。自己実現、を目指し、自己満足、自己貫徹だ。どこまでも自分のためであり、自分追求だ。

しかし、私達は天を目指し、御言葉を根拠に、この世では寄留者であり、天に宝を積むために、神の御心を行ない、神のために生きる。目指すところは、神の栄光だ。御言葉により思考し、御言葉により判断して行く。それが価値観だ。サタンは価値観の部分に影響を与え、巧妙に誘惑を仕掛ける。価値観にさえ働けば簡単に行動を操作できる。

御言葉や祈りから離れると、クリスチャンもすぐ自分の損得、自分の賞賛、自分の欲望、自分の都合、自己防衛のために生きてしまう。根深い古い性質がある。御言葉がどう言うかでなく、自分の肉の判断で行動してしまう。しかし、御言葉はいつも鏡となり、自らの自我や肉の判断に日々気づかせてくれる。そして軌道修正してくれる。鏡が無ければ、自分の本当の姿がわからない。日々御言葉の鏡に映し出され、又、御言葉により指針が示され、主に喜ばれる御心の道に歩んで行ける。
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少しでも御言葉から離れると、ぐいぐいと生まれたての自分が出てくる。弱い者だからこそ、今の自分のいる位置、受け続ける世の価値観を示される御言葉を求めよう。思いを御心に書き換えていこう。