2013年11月04日(月)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」ヨハネ8:11 




律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女を、主のもとに連れて来た。姦淫が許せないという事ではなく、主を陥れる罠のためだった。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」石打ちにせよとなると、あなたが説いている愛はどうなるのか、石打ちにしないとなると、律法を守らないと告発しようとした。

しかし主はかがみ、指で地面に書いておられた。尚も問い続ける人たちに「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた。すると、一人一人と去り、皆が去って行き、誰もいなくなった。彼女も、皆に紛れ込んで逃げ去る事ができた。しかし、彼女は逃げずに、自分の意志でそのままそこにいた。現行犯で捕らえられ、逃れる事が出来ない。姦淫は死刑であり、石を打たれて当然であった。

死を前に、罪を意識していたであろう彼女に、主の言葉がしみ入っただろう。想定外の展開に、今まで見た事のないこのお方に 身を委ねた。群衆は罪がわかったが、主から逃げた。主は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と聞くと、彼女は「主よ。だれもいません」と答えた。「わたしもあなたを罪に定めない」と。

彼女は赦しを受けた。罪の苦しみから逃げる事が解決なのではない。真の解決は罪が赦されることだ。同じように、主はあなたの罪を赦して下さる。「あなたを罪に定めない」と。逃げないで、主に向かおう。
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罪が赦されるという喜びは、罪を全て負って下さる主の前に立って始めて与えられる平安だ。赦されまた新しくされるとは何と感謝なことだろう。自分の義を誇り、逃げていてはいつまでも闇の中だ。