2014年08月04日(月) 「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7
「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7
周囲に偶像を見て、育って来た日本人は、くどくどと唱え、量を多 く拝めば、聞かれると思い違いをする。数珠を繰りながら唱えたり、 とにかく毎日時間をかけて拝む姿を見聞きするので、同じ言葉の繰 り返しでも、熱心にさえ祈るなら聞かれるというのが、潜在意識に あったりする。 そして、自分が中心の信心なので、神よ、ああして、こうして、あ っちへ行って、こっちへ来て式の祈りをする。願いが聞かれないな ら、そんな神は要らない。欲しいのは自分に都合のよい神だ。自分 に都合良く人生が回って欲しい。人生途上で神に出会ったクリスチ ャンも、長年培われた価値観が根深く潜んでいて、自分のための神 になってしまう。 ところが、祈る先に必要をご存じの神だ。祈りは何のためだろう。 あたかも神が状況に無知かのように、くどくどと説明する必要はな い。すでにご存じとは、何と感謝で嬉しい事だろう。熱心に祈って、 祈りを手段として、祝福をもぎ取るのではない。あなたよりも、本 当のあなたをご存じの神が目の前におられ、その方は御子を殺すほ どに愛して下さったお方だ。 親は子が心配する前に、子の必要を心配し整える。私達は自分にと って何が本当に必要で、何が最善かがわかっていない。それを教え てくれるのが祈りだ。祈りの中で自分が変えられて行く。真の必要 がわかり、それを求めて行く。お願いする先に必要をご存じ、だか ら祈らなくてよいのでなく、「だから、祈りなさい」だ。 ------------------ 祈りながらその中で御心を知り、御心に導かれて行く過程がいつも 祝福だ。出来てない事を示され、出来る者へと明け渡す決心が与え られた。今朝の祈りの祝福だ。