2014年09月04日(木)

「・・自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」ヨハネ13:1



主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、
完全に、最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛
し通された」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、弟子たち
の足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろうユダの
足を、知った上で、洗われた。ユダをも最後まで愛し通された。

ペテロも主を裏切った。3度も、呪いをかけ誓い「あんな人を知ら
ない」と。そして「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてし
まった」。弟子たちは皆、逃げた。それもわかった上で、主は皆の
足を洗われた。わかっていて、尚かつ極みまで愛された。

しかしながら、ユダとペテロは違っていた。ユダは後悔したが、主
のもとへ行かず、主に頼らず自分でかたをつけた。ペテロも後悔し
たが、主のもとにとどまり、すぐに悔い改めた。他の弟子たちも復
活の主のもとへ戻って来た。

「さて・・ユダにサタンが入った」とあり、悪魔は勝手に入れない。
ユダは悪魔を選んだ。徐々に心を開いて許して行った。主はユダを
愛されたが、ユダは主を選ばなかった。計画的確信犯であった。自
分の描いていた主と違ったのだろうか。主のそばで3年間、御言葉
を聞いた。主のわざも見た。御言葉も知った上で勘定し、自分が選
んだユダの意志だった。

ペテロは後に「身を慎み、目をさましていなさい・・敵である悪魔
が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めて、
歩き回っている」と言っている。しっかり心に留め、目を覚まし祈
っていよう。
------------
悔い改めでさえ自分できっちりかたをつけたユダは最後まで主に頼
ることがなかった。悔い改めが弱い私たちに備えられているが、真
に主に向き、もう一度新しいいのちを生み出す悔い改めでありたい。