2016年02月03日(水)

「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11



エデンの園で、アダムとエバは罪を犯してしまった。しかし、主は
アダムに、「あなたは・・食べたのか」と問われた。それはアダム
に悔い改めの機会を与えるためであった。その時、アダムは「ごめ
んなさい。罪を犯しました」と言う事ができた。しかしアダムはそ
うせずに、エバのせい「この女が、くれたので、私は食べた」と。
更に「あなたが私のそばに置かれた」と神のせいにした。

人類最初の有名な責任転嫁だ。「あなたのせい、あの女のせい、置
かれたあなたが悪い」、そして自分は正しくて、被害者だ。私たち
もどうだろう。自分は被害者だろうか。「あの状況では、怒って当
然だ。自分を怒らすような事を言った相手が悪い。相手がそのよう
な言葉を発しないなら、私は怒っていない」、又、「私は疲れてい
たのだ。疲れていたのだから、悪い態度も仕方がないではないか」。

相手が何を言おうと、怒ったのは自分だ。疲れていたとしても、悪
い態度で相手を傷つけたのは、自分だ。言い訳せず、それを認めて、
主のもとに行く時に、いつも赦しといやしがある。心は平安にされ
る。自己正当化や自己弁護の世界と何と対極にある安堵、平安だろ
う。

ある家庭で、外出時間に追われ、皆がイライラし、内心「遅い!」
「早くして!」と責める思いに。その時、一人が「ごめんね!遅く
なってしまって」と言った途端、空気がパッと変わり「あ、いいん
よ」と、和やかな思いやりの雰囲気になってしまった。
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罪を赦してくださる神の恵みを経験している。何度も失敗する者だ
がそこに希望の光がある。罪をごまかしたり、隠れたりする必要は
ないと学ぼう。