2016年03月05日(土)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下には いません」ガラテヤ5:18



ある医師が、不眠症患者の治療をした。入院治療しても、どうやっ
ても眠れず、どんなに頑張ってもだめだという患者に「では、どれ
だけ眠らないでおれるか、記録をとって、新記録を作りましょう。
眠らないように頑張って下さい」と。すると、何と深夜見に行くと、
ぐっすり眠っていたのだ。「眠らねば〃」から解放されて、「眠ら
なくてもよい」ことに安堵し、安心しきってしまった。

私たちも律法の「ねばならない」に、はまって行く時、やればやる
ほどますます出来ない自分に、がんじがらめになる。あり地獄のよ
うだ。もがけばもがくほど、ますます罪を意識するばかりで、泥沼
にはまって行く。自分を責め、罪意識にさいなまれ、落ち込むばか
りだ。

しかし「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりまし
た」つまり律法は私たちが、何一つ守れない事を私たちに示すため
にあると。聖書の御言葉はすべて、私たちの内におられるキリスト
が行ない、成し遂げて下さると。自分の力でするのではない。私が
しなくてもよい。私に代わって、内に生きておられるキリストが成
し遂げて下さる。

では、私は、何をするのか。主が成し遂げて下さることを「信じ
る」、ただ信じて行く。主を信頼して行く。これが信仰による歩み
だ。重荷はすべて主の上にあり、自分の上には無いので、平安な歩
みだ。そして「あなたの信じたとおりになれ」の通り、信じている
と、そのように成就されて行く。

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最初はどうしても律法を行なおうと、頑張りに頑張る。どこまでも
頑張ってしまう。しかし、どんなに頑張っても出来ない事を知り、
認める。ギブアップする。そして主に委ねた時に、律法を行なえて
いる自分を発見し驚く。