2016年06月04日(土)

「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので・・ビ テニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにな らなかった」使徒16:6


私たちが主の導きを求める時、「環境」をよく見て行くことは重要
だ。パウロが二度も環境によって、行く手を阻まれた。「アジアで
みことばを語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通
った」ビテニヤに行こうとしたが、ストップがかかったので、トロ
アスに下った。

東から来て、南も北も閉じられたので、西に向かった。阻止された
理由は、神のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからであった。も
し御霊の阻止がなければ、御心と違った方向へ向かっていただろう。

私達にも神のプランがあり、時に行く手にストップがかかる。自分
には志があるが、しかし門が開かれず、状況が整わないなら、それ
は神の御心ではない。入試が、就職試験が、不合格なら神の御心で
ない。「ノー」が神からの答えであり、御心は別の所にあるという
事だ。

しばしば私達は、ストップがかかると、導きを失ったと勘違いし、
迷子になったような不安、心細さを感じる。しかしそうでなく、そ
こが御心ではないという「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。
環境の開き閉じによって、導きを知れる。門が開かれたなら、その
方向に進んで行けばよい。御心の門は、目の前で、ひとりでに開い
て行く。神が開かれるからだ。

自分でたたき割り、こじ開けて進むのではない。必ず目の前で門が、
開かれて行く。御言葉、祈りによる平安と共に、状況をよく見てい
よう。

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主は導いて下さる。でなければ、どこへ向かえば良いかがわからな
い。どんなに進みたくても、環境が閉じられている時は、祈りつつ
待とう。神の時もある。また、思いとは別の道かも知れない。祈っ
ているからこそ、閉じ開きがわかる。