2018年12月05日(水)

「イスラエルは罪を犯した・・だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ」ヨシュア7:11 



アイへの偵察隊が戻り、「二、三千人で大丈夫」と報告した。その
ためアイに三千人を戦いに出したが、予想外の、散々な敗北だった。
そのため民の心はしなえ、水のようになった。勝利を信じて疑わな
かっただけに、大変なショックであり、動揺であった。

主の大きな奇跡によってヨルダン川を渡り、エリコ城壁崩壊の大勝
利を目の当たりにし、勝利に次ぐ勝利だ。大いなる神が共におられ
る、周囲の民もそれを恐れた。その事がヨシュアの拠って立つとこ
ろであり、一つでも敗北の事実自体が、それらをすべてなし崩しに
してしまう。主の御名はどうなるのか。

敵の前で、この敗北は周囲にはどう映るのか。敵にとっては恐れが
失せるだろう。恐くも何ともない。重大で深刻な事態だ。ヨシュア
は、「なぜですか」と御前にひれ伏し祈った。「大いなる御名のた
めに何をされるのか」と。だが、「大いなる御名」こそが、この敗
北を与えられたのだった。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、
聖さのゆえに、罪のあるところには働けない。聖く無い所では、む
しろ敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の
側にあった。神との間が正しければ、アイでも今まで通りに勝利し
ていた。神は罪を示し出され、アカンの罪が発覚した。

そのアカンの罪が対処された時に、再びアイに上り、完全勝利が与
えられた。罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちには主の
血潮がある。罪があれば、今すぐ主のもとへ行き、告白しよう。主
は全き赦しを与え、回復させて下さる。心に平安が戻り、罪赦され
た喜びに溢れる。
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罪をそのままにして前進はできない。上手く行かない問題の原因は、
外より自分の内にあるのではないか。神の前に罪を悔い改めたなら、
豊に赦される。聖い神に歩みを整えてもらおう。