2019年08月04日(日)

「・・神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たち は知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々 を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ロー マ8:29



私たちは、主のために働きたいし、役に立つ器とされたいとの思い
がある。だがそこでキリストに似た者に変えられて行く「聖化」と
いうより、自分の賜物がいかに用いられたか、どれだけの働きを遂
げたかというような、目に見える「成果」を求める間違いに陥ってし
まう。

この世の価値基準が、目に見える「成果」だからだ。企業はどうだ
ろう。立派な動機があり、素晴らしいプランがあっても、何の「成
果」も無ければどうだろう。慈善事業ではないので、結果を出さな
くては意味が無い。結果がすべてだ。成果が要求され、それを追い
求めて仕事をしている。

しかし私たちは異なる。私たちが救われたのは、主に似る者とされ
るためだ。生涯を通じて、主のかたちへと造り変えられて行くこと
だ。主の愛、主の喜び、平安、寛容、親切・・へと変えられて行く。
だが私たちの内には、根深い肉の性質があり、それは「自分が」認
められたい、評価されたい。「自分が」褒められたい。賞賛された
い。どこまでも「自分」「自分」がある。

無意識にも主の栄光でなく、自分の栄光を求めてしまう。肉は自分
の力でやって行きたい。そして自分が認められ、評価される事が嬉
しいし喜びだ。だが、そこに神の栄光は無い。キリストに似るとい
う目的からずれる時、肉がすぐに頭をもたげ、自分の栄光にすり替
わってしまう。

主と同じかたちに変えられて行くのは御霊の働きによる。自分では
不可能だ。御声に一心に耳を傾け、御言葉に一歩一歩従って行く時
に、自分の力によってでなく、御霊によって変えられ、造り上げら
れて行く。そのように定めて下さっているとは、何という恵みだろ
う。
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万事益とされるのは、御子の似姿に変えるためとある。御子のかた
ちへ変えるように、益とされるのだと。古い価値観は、自分の利益
のために、万事益にされると勘違いしてしまう。一つ〃の失敗も、
御子の似姿に変えるために益とされるとは、何という恵みだろう。