2021年05月05日(水) 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」へブル12:2
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」へブル12:2
不信仰とは、信仰が足らない事ではない。不信仰とは主を仰がず、 自分の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」へブル12:2 力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。つまり、主を 頼らず、自分を神として、自分の力で生きることだ。不信仰は、自 分の人生の全主導権を自分が堅く握って生きる。つまり、車の運転 席に自分が座っている。主は助手席だ。自分主導で思い通りに生き て行く。 又、自分主導なので、問題に直面した時、すべてが自分の肩にかか る。だから負いきれずに思い煩いでいっぱいになる。しかし、むし ろ真面目に生きているつもりなので、気づかない。不信仰とは、自 分のための神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも 軸が自分であり、自我だ。見ているのは主でなく、いつも自分自身 だ。 不信仰とは、信仰の量の不足のように思うが、主を仰がず、主に頼 らないことだ。信仰とは、自分の思いを捨てて、主の判断、知恵、 主の心を求めて、主に頼って生きることだ。自分は助手席に座り、 主に運転席に座っていただく事であり、自分と自分の人生を、主に 明け渡して行くことだ。 主を仰いで、生きて行く時、必ず自分が変えられて行く。自分の損 得でなく、主の御心を求めるように、少しづつ変えられて行く。奇跡 だ。主の喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、 損になろうと従って行く。その時、御霊の喜びと平安、真の心の満 たしを経験する。そして御霊によって歩んで行ける。 ・・・・・・・・・・・ 自己中心に、自分のために生きて来た者が、主のために生きようと するとは、何と感謝な事だろう。奇跡だ。自分が変えられている。 主を見ることが、信仰だ。溢れる愛で、愛し続けて下さっている主 を、見ていよう。目が離れている時は、気づかせて頂こう。