2026年07月05日(日) 「祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、 少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。 両親はそれに気づかなかった」ルカ2:43
「祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、 少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。 両親はそれに気づかなかった」ルカ2:43
主が12才の時に、ヨセフとマリヤと共に過越の 祭りで、エルサレムに上られた。帰路につくが、 主はまだ、とどまっておられた。1日歩いた後、 夫妻は我が子がいない事に気づき、心配と不 安の一夜の後、翌日都に引き返した。3日目に 都中を探し回り、やっと宮で見つけた時、教師 たちの真中で、話を聞き質問していた。 人々はその知恵と答えに驚嘆した。両親は驚き、 非常に心配し、捜し回ったと告げると、主は、「わ たしが必ず自分の父の家にいることをご存じなか ったのですか」と答えた。主は、肉の父と、霊の父 がいる事を明かされた。ヨセフとマリヤは御使い からの託宣、数々の預言、奇跡による誕生等を 通して、イエスが神の子であることを理解してい た。しかしいつしか肉親、我が子になっていた。 主は両親に、自身は神から来て、メシヤとして遣 わされた事を思い起こさせようとされた。その時、 両親には意味がわからなかったが、マリヤは心 に留めていた。主は一緒に帰り、両親に仕えら れた。主は、神の子であるとの自覚の後、仕える ために帰られた。信仰は、人に仕える事となって 現れる。仕えるとは、へりくだって、互いに人を自 分よりもすぐれた者と思うことだ。 へりくだらなければ、仕えることはできない。又、 主は「必ず自分の父の家にいる」と言われ、両 親は主を、違った場所に探し、見つけられなか った。自分の肉の思いで主を探すと、見失って しまう。いつも主を仰いで、御霊の導きの中にい る時に、「わたしにとどまりなさい」と言われる、 主にとどまる事ができる。 ・・・・・・・・・・・・・・ しばしば、主を自分の思いで、自分の思う場所に捜 してしまう。自分の思い通りでありたい。しかしそれ は肉の思いなので、見つけられない。主に自分の思 いを明け渡して、主の御心を求めて行きたい。