2007年03月03日(土) 「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13
「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13
自由は、何でもしたい事をする事ではない。 放縦やわがまま、自分勝手と勘違いしては いけない。魚は水の中で自由、私達は陸で 自由なように、自由は無秩序でなく、秩序 がある。魚は水の中が不自由と感じないよ うに、秩序の中の拘束が自由なのだ。楽器 を演奏する時、譜面に、英語を学習する時、 文法に縛られないだろうか。それらに乗っ 取って初めて、素晴らしい演奏ができ、流 暢に英語を喋れる。スポーツもルールがあ る。誰かそれをルールに縛られて拘束だと 言うろうか。自由とは無秩序でなく放縦で ない。しばしば生まれつきの思いは、勘違 いする。すべての拘束から解放される事が 自由だと。そうではなく、拘束を受け入れ て、従うこと、つまり御霊の導きに従うと ころに、本当の自由がある。今、くびきを 負う事を拒否している事柄があるか。拒否 する事、逃れる事が、解放される道と勘違 いする。御心から逃げて、解放感を味わっ た事があるか。解放どころか、平安が失せ 惨めになる。実際は、くびきを受け入れて、 しっかり負う事が解放される道だ。喜びと 平安が来る。今、示される事があるなら、 受け入れて従おう。信仰生活に真の自由を 味わおう。 ・・・・・・・・・・・ 嫌な人を憎み続ける事が自由だと思う。絶 対に愛したくないと思う。しかし、主にそ の心を明け渡し、御霊に従うなら愛が与え られ、愛する事ができる。愛する事が真の 自由だ。問題はそれを頑なに拒んでいる心だ。