2008年01月05日(土)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6

私達は罪が赦されるために、何か必要
なのだろうか。ミカは、どこまで行な
えば受け入れてもらえるのかと言って
いる。何をもって御前に出たらよいの
か。一歳の子牛を献げたらよいのか。
いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万
の油を献げなければならないのか。い
や、それでも足らなくて、子供を殺し
て、献げる必要があるのか。罪意識が
強く来る時に、それを何とかしようと
するなら、子供を殺すところにまで行
くと言っている。これが「邪悪な良
心」だ。良心に邪悪なものがあるのか
と、不思議に思うが、邪悪な良心とは、
神を認めない心だ。神のして下さった
事を認めない。しかし、キリストの十
字架で、主の犠牲により、何もかもが
解決されている。すでに完了している。
罪の赦しは成就されている。それを認
めないで、それでは足らないので、何
かをしなければと思う心だ。つまり、
全面的に完全に、赦されている事を信
じない。赦されるはずが無いと信じて
いる。。だから、行ないを足して受け
取ろうとする。それなら子殺しにまで
行き着くという事だ。そうでなく、無
代価で、無償で、いっさいのかたが着
いていて、無罪放免にして下さる。こ
のプレゼントを、恵みを、感謝して、
受け取る事が神の御心であり、喜ばれ
る事だ。その時、血の注ぎを受け、邪
悪な良心がきよめられ、素直な心にさ
れ、更に神に近づけると。
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人間の生まれつきの価値観の中に、恵
みの要素は存在しないので、なかなか
わからない。見た事も聞いた事も無い
世界だ。相反して来る価値観をよくわ
きまえて、信じて行こうとする意志を
主に向けよう。御霊は働き助けて下さ
る。