2008年07月04日(金)

「互いの栄誉は受けても唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか」ヨハネ5:44  

二つの栄誉を言っている。人か
らの栄誉と神からの栄誉だ。人
からの栄誉は、人間同士で受け
合うものだ。人に誉められ、自
分が栄光を受ける。心には優越
感なる喜びがあり、自己満足が
ある。もう一方は神からの栄誉
であり、神から来るので、人に
は誉められない。むしろ理解さ
れない。私たちは、神からの栄
誉は欲しいが、肉は人からの栄
誉を求めている。見えない神か
らの栄誉などよりも、目に見え
るものが欲しいのだ。しかし、
どちらもという事はあり得ない。
神の栄誉を求めるなら、人から
の誉れはない、人からの評価は
得られない。人の栄誉を求める
と、神を犠牲にし、神を無視す
る事になる。人の賞賛を求める、
肉の欲求は強烈だ。自分が崇め
られ、肉の欲が満たされる。こ
の箇所のユダヤ人達は、御父が
御子を遣わしたと言っても受け
入れない。しかし、自分たち同
士の事は受け入れ合う。これは、
神の言葉ではなく、自分の思い
を土台にする見方に問題がある
と言われた。神と神の言葉の上
に立つのでなく、どこまでも自
分が中心だ。それは神を愛して
いないし、神を信じることがで
きないと。自分が主権を握って
いるから、自分で取捨選択して、
自分の思いを取り、神の言葉を
捨てる。ここが問題であり、こ
の根本的自分中心が砕かれる
時に、神を信じ愛して行けると。
自分の土台は御言葉か、それと
も自分の思いだろうか。
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み言葉に従うなら、捨てて行か
なければならないものがある。
目の前の賞賛に心奪われてしま
い、従う方を簡単に捨ててはい
ないだろうか。