2009年08月04日(火)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいておりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16



ある人が、目まぐるしく多忙な日々を過ごしていた。次から次へとこなさなければならない仕事が目の前にあり、少しづつ、神が後回しになって行った。その内、祈りの時間も失せて、自分の思い、自分の知恵で歩むようになった。

祈りが無くなり、御言葉も心に入らなくなり、心に響いて来なかった。悪循環となり、ますます自己中心になり、イライラ、ピリピリして、思い通りにならない周囲をさばいて行った。

仕事も更に忙しく、心に余裕なく、しんどくてたまらなかった。余りに心が苦しくなり、聖書を開いてみた。しかし、御言葉は全く心に入らず、ただの文字にしか過ぎなかった。祈ってもみたが、何の変化も無かった。

心重く、しかし、心渇いて次の聖日に礼拝に出た。その時、賛美する十字架の歌詞が、心にぐいぐい迫り、染みた。何もかも捨てられた主、死にまで、実に十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲の愛、主の真実が、乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心に染みて来て、メッセージ共に心が溶かされて行った。

真実なる主は、苦しみの中から祈った、その小さな祈りを確かに聞かれたのだ。その祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のもとに行こう。
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神様から遠く離れている気がする時がある。けれど神様はいつも近くにおられる。神様と語り合う特権が与えられているのに私達は、それを忘れてしまう時がある。何でも祈っていこう。必ず神様も語られる。