2010年02月01日(月)

「神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに・・私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」Tペテロ1:3



エデンの園で、善悪の知識の木の実を食べた、アダムとエバには自意識が生じた。それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、さばくようになった。人がどう見ているかを、人でなく、自分が量る。

結局人が恐れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。
自分が、自分の一番厳しい審判者だ。自分で自分を追いつめ、束縛するようになった。それゆえ、恐れと不安が生じ、恐れる者となった。

人ではなく、自分が自分をさばく。自分の中に敵をかかえていて、自分を一番傷つけているのは、相手や周囲でなく、自分自身だ。これがアダムの罪の結果だ。
自分から逃れられない。自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自分、自分だ。

ここから救うために主キリストが来て下さった。この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十字架にかかられた。アダムの違反により罪人となった私達は、キリストにより義人とされる。

この自己にがんじがらめの呪いから解放され、死からいのちへ移された。
「・・信じる者は、死からいのちに移っているのです」完了した。移転途上でなく、すでに移り終わった。そのいのちは、神を親とし、神の子供として生まれ、神の性質を持ついのちだ。
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罪と一緒に、私達の自我も主がともに十字架につけて下さり義とされた。だから、もう自分が自分を裁く必要はない。何という感謝か。この恵みを無にせず新しいいのちを喜び、古い自分が顔を出す時きっぱりと否定して生きていこう。