2010年05月04日(火)

「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」U列王7:2 

  
こに信仰と不信仰が出て来る。預言者エリシャは、大飢饉のサマリヤで、「主の言葉を聞け」明日、小麦や大麦が売られると預言した。しかし王の侍従は、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と嘲笑った。そこで、彼は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、食べることはできない」と答えた。

丁度、4人のらい病人が、どっちみち死ぬのだからと、敵の陣営に行ってみると、そこには誰もいなかった。主がみわざをされ、敵は逃亡していて、有り余る溢れる食物を見つけた。何と主の言葉が、その通りに実現した。奇跡をされた。しかし、その侍従は、門の所で殺到した民に踏みつけられて、死んでしまった。

侍従の、不信仰な、懐疑的な言葉に対する、エリシャの言葉もその通りに成就した。彼が、主の言葉を、信仰持って聞いたならどんなに祝福だったろう。又、不信仰のイスラエル王も出て来る。子供を食べるほどの饑餓の悲惨を、神のせい、エリシャのせいにし、エリシャを殺そうとした。

しかし、王のなすべき事は、御前に自らの不信仰を悔い改め、神に助けを求める事であった。私達も困難の時、心を屈折させ、神や、環境や人のせいにして、ますます頑なになり、神から離れるだろうか。神の願い、御心は、人生の困難を通して、私たちが学び、自らの自我や不信仰に気づき、変えられ、成長して行く事だ。
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困難な状況の時には、狭量になり何かのせいにしたくなる。不信仰に陥る時、神様になぜなのかと不信仰な思いをそのまま話して行こう。どんな心の状態でも神に目を向ける事が信仰だ。