2010年08月03日(火)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはべつの方を待つべきでしょうか」マタイ11:3


私たちの信仰生活の中で、神に対し、信仰に対し、心が揺らぐこと、わからない事、つまづいてしまう事が出て来る。又、今も、あるだろうか。主は、その心の傷み、つまづきをご存じだ。慈しんで、目を留めていて下さる。そんな時、どうすればよいのか。バプテスマのヨハネに学ぶことができる。

ヨハネは人々に告げた。メシヤが自分の後から来られ、自分よりも優れた方で、その方は、聖霊と火でバプテスマを授けられる。麦と殻とをより分け、麦を倉に納め、殻は消えないで焼き尽くされると。それがヨハネのメシヤ像だった。

神の義により、逆らう者たちを滅ぼし尽くす裁き主だった。ヨハネは厳しい裁きを伝え、悔い改めを説いた。メシヤがそれを成し遂げられると信じたからこそ、自分の命を賭けた。獄中で、そんなヨハネが弟子からキリストのみわざを聞いた。

ヨハネが思っていたメシヤ像と実際の主の姿が一致しなかった。ヨハネが期待したメシヤ像ではなかった。その時、ヨハネはどうしたのか。直接、主に問うている。「おいでになるはずの方は、あなたですか」と。あなたは本当にメシヤなのかと。

主は現実に起きている事を示し、一つ一つが旧約からの預言の成就であることを提示して答えられた。私たちも、「あなたは本当に神なのですか」と、つまづいている事を直接主に聞けばよい。祈りの中で、直接、主に尋ねて行く時、主は何らかの形で自分にわかるように答えて下さる。
-----------
現状のままの不安を聞いていこう。一つの目的に向かっていても、これでいいのだろうか、道をそれてはいないだろうかと不安になる事が多い。その都度、主に尋ねるなら、今その途中であるとの確信もまた与えて下さる。