2010年09月03日(金)

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3 


ユダヤの人々は、メシヤ到来を旧約の預言からよく知り、長い間待ち望んでいた。東方の博士達がエルサレムに着き「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と問うた時、ヘロデは恐れ惑った。ヘロデが恐れ惑うのはよくわかる。新しい王が来たなら、自分の地位が危うくなる。

保身のためには身内まで殺したヘロデだ。ヘロデはわかるが「エルサレム中の人も王と同様であった」なぜ一般の人々が恐れ惑うのか。当時はローマ帝国が隆盛を極め、大帝国となり、ほとんど地中海一帯を支配していた。ユダヤもローマ帝国に占領されていたが、それなりの平和が保たれていた。自分の生活も安全も、まがりなりにも保たれている以上、それが乱される、余計な侵入者
は困るのだ。

私たちの信仰生活で、肉はそうだ。何が正しく真理であり、畏れなければならないかより、何が楽で、摩擦が少ないか。安楽でありさえすればいい、心乱されたくない。又、奇跡によりパンをくれるのは良いが、自らの人生の主となられるのは嫌なのだ。

誰にも干渉されず、自分の好きなように、思い通りに生きていたい。まさに肉の姿だ。御霊に従うところに、真の喜びがあり自由があり、平安がある。自らの内に、主を拒むものがあれば、そのところを明け渡して、従おう。従って良かったと必ず思える。
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頭ではわかっていても事が起こると、みこころを尋ねる前に、世の判断、常識が思いに来る。自分の思いを信じ摩擦の少ない方を選んではいないだろうか。たやすく肉に引かれて行く前に、正しく導かれる主に聞く時間を持ち、従える力を求めよう。